語学学校と英語学習について思うこと。 1/2


※主観です。
不快になった方は読むのをストップしてくださいませ。



1.語学学校


一種の集金システムである語学学校に学費を支払うのは、
あくまで消費者側の生徒なわけで、主体性が伴う。
では、一ヶ月日本円にして10万以上を消費するケースにおいて、
全てが本人の自己責任かというとそうではない。


勿論、そこに価値を見出しているのならば良い。
ただ、実質の価値をきちんと見出せぬまま、
本人の力量を越えるものを消化しようとしているのならば、
そこはおかしい話だ。


経営者にとって、テキスト&方式、人気講師、低費用、
は格好の宣伝材料だ。
また、海外で暮らす未知の体験、英語漬けの生活、新たな出会い。
それらの要素も非常に魅力的に映るものだ。

結果的に英語が伸びなくても、他の面で良い経験となった、
と言うならいい。

しかし、英語学習に話を絞るならば、
極論的に、宣伝材料はどうでもよく、
本人の英語力をどうやって、求めるレベルに到達させるかが、
焦点となる。


「手段が素晴らしいから、絶対目的が達成出来る。」
誰もそんなことは言えないのはわかりきった話だ。
ただ、そんなことを言う人間がいるから、まやかしが生まれるのだ。
目的に対して、手段を用意するのが本来の着眼点だ。
当たり前のことだが、意外に出来ていない。


経営者側としては、
環境を与えた時点で、あとは本人の自己責任というのが一番楽だ。
勉強しろ、勉強しろ、と言うのは簡単だからだ。
そして、伸びたか伸びていないかなんて補償範囲ではないからだ。
ただ、そんなWin-Winの法則が成り立たないような商売は、
見ていて非常に不快になる。
それは、僕が、行動と言動が一致しない(結果的なものも含め)
人間を信用/信頼出来ないものに端を発しているわけだが、
生徒のための語学学校、と言い張るならば、責任をとってみろと。


ここで僕は、
語学学校に必要なのは、コーチ/トレーナーだ、と言いたい。
英語学習をスポーツとして捉えると、
個人個人の能力の見極め、基礎訓練、ウォームアップ、練習試合、本番、反省会、今後への教訓。
全てに対して目を配る必要があるからだ。入門者、初心者、中級者、上級者それぞれのレベルにあった、
一定の成果の出るトレーニングメニューを提供出来た時点が、出発点となる。


いくら、
方式が悪かったから改善した、
講師毎に授業内容にバラつきがあるので均一化を図っている、
と言った所で、
学習内容を個人毎に調整しないと、無意味だ。
つまり冒頭でも言ったが、自分の学習している内容について、
意味と効果が説明出来る内容を繰り返し行なわないと、
成果は出ない。


たとえば、カラン。
僕が思うに、1Stageあたり、3周はする必要があると考えている。
しかし、忘却曲線や本人の一度に吸収出来る分量を考えると、
テキストのページ数は膨大である。
もともと文法が似通っている言語圏向けのテキストなので、
分量が多くとも、彼らにとっては問題はないのであろう。
しかし、日本人向けではない。
僕の持論として、訳の解らない内容を学習し続けるのは、
苦痛であり、説明出来ないものは身に着かない。


あくまで、英語への慣れという目的で使うならば、
それでも良いが、仮に1日6時間やったとして、達成感や疲労感は
高いが、何が本人に残ったか、説明出来る人は少ないと思う。


というわけで分量を1/3にして、その分3周したほうが、
解析も出来るし、頭にも残り易いと僕は思うのです。


強いていうと、日々、内容は改善されています。
と言われたところで、過去の人々は改善前の内容に
個人個人のせっかく貯めたお金を支払っているわけで。
その面で言うと、発展途上なんてものは、偽善で言い訳だ。
金を受け取っている以上は、
これまでも、これからも提供する商品に対しての効果に
継続して、責任が生じるものが当然だと思う。
これから良くなっていきますんで!と聞いた過去の人々はどう思うだろうか。
ネガティブな意見は良くないかもしれないが、これらは真剣に考えられる話である。


購入後はお客様の自己責任なんて話を再度持ち出されたとしたら、
英語学習にコーチが必要な理由なんてさらさらない。
試合で負けようとお構いなし。
そんなことで満足出来る人はいるだろうか。


まぁ、カランの話は個人差があるので、意見は様々だと思うが、
全体として、話の軸はぶれていないつもりだ。
諸外国と比べて費用が安い面も知っているし、
何かと妥協面が必要なのもわかる。
しかし、それを差し引いても、おかしい部分はおかしいと思う。


物言いは別として、これらに反論出来る人は、
そもそも自主学習が出来る人間であり、
何処にいても上手く行くタイプの人間だと思う。


以上。